婚礼をタイムトラベルしてみると(黎明編)
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タイムハンターに婚礼の歴史(黎明編)
古代から平安時代
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文章や記録は残ってませんが。人類学者が未開の部族を観察して類推した内容ですが仮にタイムワープできたらどんなスタイルなのかハイスピードで見てみましょう!
古代の日本は性に対して開放的で、男女間の交際はとても大らかなものでした。
仏教や儒教といったものがまだもたらされておらず、道徳規範が存在していなかったこともその理由の一つではないかと言われています。
いわゆる乱婚、雑婚といったコミュニティ内での共同婚が行われており、結婚に関して特に儀式などは行われていなかったようです。
生まれた子供は母親のもとで育てられていました。
すこし時間がすすんで行くと、古墳時代には「妻問婚」が行われていたようです。
「妻問婚」は、男性が女性のもとに通う結婚の形です。
普通、子は母方の一族に育てられ、財産は全て母から娘へ譲られました。
母権の強い民族に多く見られる制度のようです。
「つまどい」という言葉は古事記や日本書紀などの書物にも登場します。
妻問婚は、自由な恋愛による結婚でした。
最古の正史とされる古事記に最初の婚姻の記録がのこってます。
「伊邪那岐(イザナギ、男神)」・「伊邪那美(イザナミ、女神)」の二柱の神による国産み神話に、二人の神の結婚についての記述が見られます。
またこの時代求婚には歌などが用いられたようで、万葉集などにもそういった歌がたくさん残されています。
結婚しても夫婦は一緒には暮らさず、別居の形を取っていたようです。
飛鳥・奈良時代になると、唐の文化がもたらされ、各種の儀式に唐の習慣が取り入れられるようになります。
結婚についても唐にならって様々なしきたりが作られました。
結婚が許される年齢は男子は15歳、女子は13歳とすること、王に連なる皇族と臣下の結婚を禁じること、略奪や売買(モノとの交換)による結婚を禁じることなどが定められたようです。
現在の結婚に際しても行われる結納や、仲人を立てるならわしもこの時代に起源が求められるとされています。
男性側からから「媒酌人」を通して女性側の父母、祖父母などに結婚を申し入れ、承諾が得られれば贈り物をして結婚の約束を取り決めていたようです。
また、結婚の日取りは吉凶を占って決めていたようです。こちらも今の習慣につながるものです。
貴族の間では一夫多妻の習慣が一般的であり、最初の妻を「こなみ」と呼んで正妻としました。
その他の妻は「うわなり(後妻)」と呼ばれ、区別されていたということです。
平安時代には、主に貴族の間での結婚の形が整い、「三日夜(みかよ)の餅」「三献(さんこん)の儀」などの結婚に関わる儀式が成立します。
一夫多妻の習慣はそのまま引き継がれています。
和歌の交換などをきっかけに自由な恋愛から結婚に至るのが一般的で、スタイルとしては「妻問婚」が継承されていました。
ほとんどは夜に男性が女性のもとへ通ったり、泊まったりして夫婦関係を続けるものだったようです。
関係が長く続き、女性の両親にも認められるようになると、男性は三日間続けて女性のもとへ通い、その最後の夜の来訪により結婚が成立するという形が取られていました。
三日目の朝は女性側で「三日夜(みかよ)の餅」と呼ばれる楕円形の餅を銀盤に盛って用意し、新郎新婦が食べたと言われています。
客を招き、酒や料理をふるまって二人の結婚を祝う「露顕(ところあらわし)」と呼ばれる結婚披露宴のようなものも行われていました。
高坏(たかつき)にもてなしの料理を載せ、列席者の前に運びます。
上席から酒をつぎますが、これが「一献」。
次の料理が行き渡ったら、同じように酒をついで「二献」が終わります。
それから「三献」が始まって祝いの座を閉じ、正式の宴が終わるというのが正式な流れだったようです。
この三日間は、家中の燈篭や灯明は消さないのが良いとされ、昼夜を問わず明かりはつけたままにされたそうです。
夫と妻が同居することは一般的ではなく、それぞれの家に住み続けるのが基本でした。
帝の後宮に入った場合はもちろん家を出ますが、出産の際には里帰りし、生まれた親王や内親王は実家で養育されることが多かったと言われています。
そのほか、地方への赴任が多い中級の貴族の場合や、妻に実家の後ろ盾がない場合には二人が同居することもあったようです。
庶民の間では、もっと簡略化された形の結婚が行われていました。
歴史ってわくわくおもしろい
かしこいWEDDING手帳
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